二紀会のホームページへようこそ。
まず、二紀会の生い立ちからお話いたします。
1945年、あの太平洋戦争が終戦を迎えます。日本のほとんどの都市は焼け野原、食料も着るものも簡単に入らない。しかし、多くの日本人は、やっと平和の時代到来となり、いよいよ、これからは民主主義の時代だ、文化国家を作らねばならない、と廃墟と飢えの中で気持ちだけは高揚します。その時代背景のなかから二紀会も創立されました。1947年、戦前の二科会で活躍し、すでに名をなしていた9人の画家たちが創立会員となりました。会の名前も創立期は「第二紀会」とします。戦前、戦中を仮に、第一紀であるとすれば、この創立の日をもって第二紀として未来に進んで行こう。その決意で命名されます。しばらくののち今日の「二紀会」という呼称に変わりました。その創立の精神を示す4つの主張を宣言します。今で言えばマニフェストであります。
1 美術の価値を流派の新旧に置かず、皮相の類型化を排する。
2 具象・抽象を論じない。流行によって時代を誤ることを極力避ける。
3 真に新たな価値を目指し、創造的な個性の発現を尊重する。
4 情実を排しつつ、新人を選抜しこれを積極的に世に送ることに努める。
今では表現が古風ではありますが創立時代の燃えるような精神、そして理想がすべて込められています。
間もなく二紀会も創立から70周年を迎えますが、この精神は世代を越えて私たちの規範として生き続けています。これは、二紀のDNAなのです。
二紀会の組織はどんなものか。これは国のルールに従った「一般社団法人」です。絵画部、彫刻部の2部門で、そこには、準会員、会員、委員のおよそ600名が組織を担っているメンバーたちです。そして、選出された理事による理事会が全般の運営を行います。
さて、メーンの「二紀展」は毎回、東京・六本木にある国立新美術館の半分を使って開催されます。さっきの600名に一般入選者を加えて、ほぼ1000点が一同に並びます。東京が終わりますと年によって違いますが、名古屋、京都、広島、福岡など6〜8都市を巡回します。こうした時、支部展が共催されたり、なによりも巡回展の受け皿となって活動して成果を上げています。二紀会の強みは全国38の支部力です。
二紀会(二紀展)は先ほどのマニフェストに示したように、具象・抽象を越えた、それぞれの個人の創造性を公正に評価すること、そして新人を選抜して積極的に世に送り出す。ここらを常に力点においています。一つの例では2011年から始めた、第三者である三越本店美術部と二紀会のコラボレーションによる、<われらの地平線>と題した40名前後の展覧会では、新人層が多く紹介され、初入選の絵が審査員の絵と仲良く並ぶといった会場のなかで、トークでは自己の作品の哲学も語る。東京での二紀展では大きくとった第1室が、新人の部屋になっているので美術関係者には好評です。
最後に運営面では全くの「実費主義」健全なガラス張り、正直なところ何時もぎりぎりでやっています。出品者どうしは長く付き合う仲間。「明るく楽しく」やっていこうと、二紀の人たちみんなが思っています。なぜってアトリエの中では、いつも一人きりで、時には苦汁を嘗めながら頑張っているのですから。
山本 貞(二紀会理事長)
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